ウェブサービスを巡るたくさんの私

人間には、相手に応じて態度を変えるという素晴らしい性質が備わっている。もし誰に対しても同じ態度しかとれないとしたら、友人に冷たいと言われたり、初対面の人に馴々しすぎると責められたり、職場で真面目さに欠けると怒られたり、恋人に逃げられたりすることになるだろう。人間は、その場その場で状況に応じて柔軟に態度を変えることでつつがなく生活しているのである。

しかし世の中には、このような人間の柔軟な対応が、まるで発揮できない場所がある。例えば、mixiである。

ソーシャルな私のジレンマ

国内最大のソーシャルネットワークとして1000万人の会員を誇るmixiであるが、最近はプライバシー情報の流出や人間関係のトラブルなど、負の部分がニュースとして取りざたされることも少なくない。こうしたいざこざはmixi、あるいはネット上に限った話ではないが、mixiのシステムがコミュニケーションにストレスを強いているという見方も強い。

mixiの、そしてほとんどのSNSの仕組みを簡単におさらいしておく。まず加入のためには誰かの紹介が必要になる。その紹介者を友人、mixiでいうところの「マイミク」にしたところからスタートというわけである。ユーザが他のユーザをマイミクにするためには、相手の同意が必要になる。どういう人をマイミクとするかは、「直接の友人・知人」というのが運営側のポリシーであるが、現状には個人の考えかたに大きく左右されている。ポリシーに反して「マイミク誰でも歓迎!」と訴える人が目立つ一方、知人の中でもごく親しい人だけをマイミクとする人も多い。

様々な機能を内包するmixiだが、中心にあるのは日記機能である。mixiでは、ユーザは日記の読者をマイミク、あるいはマイミクのマイミクだけに制限できる。全世界に公開される一般的なブログとは異なり、mixiではユーザは親しいマイミクたちだけを対象に気ままな文章を書けるのである。どこまでもオープンだったインターネットにこの閉鎖性を持ち込むことにより、mixiは国内でも有数の人気ウェブサイトへと成長した。

しかしmixiを続けていくとマイミクは自然と拡大していく。あんまり親しくない知人から「発見」されてマイミクになりたいというリクエストが届いたとしても、断るのは難しい。リクエストが会社の上司や大学の教官、果ては両親から届いて、断りきれなかったという話を耳にしたことがある。このようにマイミクが拡大していくと、友人との秘密だった日記は事実上、誰もが見ているのと変わりがなくなってしまい、気ままな記事は書けず、これまでに書いた分でさえ見せられないので消してしまう、というようなことになる。皮肉なことに、フラットな仮想社会にいるからこそ「ソーシャルな私」なるものが求められ、柔軟なコミュニケーションが行えなくなるというジレンマに陥るのである。

友達を管理する私の苦労

こうした現状に対応してか、VoxnowaといったSNS第二世代とでも言うべきサービスは、いずれも書いた記事ごとにアクセス管理が可能なことを売りにしている。特にVoxでは、友人や知人をグループ分けし、それぞれに閲覧を許可したり不許可したりすることが可能である。この強力な機能はUnixのファイルシステムを思い起こさせる。「chmod
640 飲み会の日記」「adduser 山田さん 親友」というように。

そういうわけで、もしあなたが優秀で労を厭わないサーバ管理者なのであれば、問題は解決している。友人を分類し、日記を書くたびに内容を判断して、その公開範囲を決めればいい。だが、そうした管理システムを一般的なユーザがどこまで気軽に扱えるだろうか。サーバのアクセス制限を間違えて情報が流出するようなトラブルが2ちゃんねるを賑わせている限りは、なかなか怪しいところである。

そもそも、友達をグループ分けするというのは正しい解決策なのだろうか。Unixにおけるグループとは、それだけの権限を与えますよ、というもので、○○担当とか××部とかに相当する、組織的なものの考え方によるものである。一方で友達というものはもっと柔軟かつ曖昧で、組織的ではない。山田さんと佐藤さんだけに見せられるものもあれば、佐藤さんと田中さんだけに見せられるものもあるし、山田さんと田中さんだけに見せられるものもある。もしかすると、考えられる全ての友人の組み合わせでグループが必要になってくるんじゃないだろうか。

私を使い分ける

複雑なアクセス管理機能がないmixiでは、マイミクの拡大によるジレンマに陥ったユーザが取る行動は三種類ある。一、諦めて当たり障りのない日記を書く。二、活動を休止する。三、別のアカウントを作成する。mixiで複数のアカウントを作成することは「複アカ」と呼ばれ禁止されているが、実際には防止策がないため、野放し状態にある。例えば社会人としての実名の私、仲間としてのニックネームの私、趣味人としての匿名な私、というようにアカウントを使い分けるユーザは少なくないようだ。

禁止行為を推奨するわけではないが、相手によって態度をかえるという人間の基本行動を鑑みると、筆者にはこういった複数アカウントの使い分けはむしろ自然なことのように感じられる。こうした使い分けはmixiに限った話ではなく、例えばgooリサーチとjapan.internet.comの調査結果によると、複数のブログを掛け持ちするユーザは全体の41.1%をも占める。内容によって書くブログを使い分けているユーザは多数存在するということである。同様に、約2割の人が携帯電話を二台以上持つというネプロジャパンによる調査結果もある。

携帯電話については、中高生の約半数が一年に複数回、携帯電話のメールアドレスを変更しているというGAMOWによる調査結果も面白い。理由として「飽きた」に続くのは「迷惑メールがウザい」「環境が変わったから」「友達、彼氏/彼女が変わったから」「メールしてほしくない人がいたから」といった項目であり、メールアドレスを変更することで自分の携帯電話へのアクセス制限をやり直そうという意図が見える。もちろん、PCにおいては、複数のメールアドレスを使い分けるというのは、ごく一般的なこととなっている。相手に応じて柔軟に「私」を使いわけるという考え方は、十分に浸透してきていると言えるのではないか。

たくさんの私を認める

mixiに限らず、多くのSNSやBlogといったウェブサービスは一人につき一アカウントという原則を守ってきた。しかし人間が相手によって柔軟に態度を変えようとする限り、誰にとっても満足できるような「ソーシャルな私」を確立して生きていくのはなかなか難しい。ユーザは自分の選んだ人だけにはアクセス可能で、それ以外の人からはうまくつかまえられないような、柔軟なアクセス管理システムを求めている。しかも、それは誰でも使えるような簡単なシステムでなければいけない。そして現在のところ一番の方策は、複数のアカウント作成を認め、その使い分けを許すことのようだ。

先日、携帯電話業界ではDoCoMoが2in1という、使い分けを推奨するサービスを初めた。多くのウェブサービスもこの流れに続いて、容易にアカウントの切り替えができるなど、複数のアカウントを使い分けることを前提としたシステムを作ってもいくべきじゃないだろうか。いずれにせよ、mixiのようにアカウントをメールアドレスと紐付けて認証しているだけでは、こうした使い分けを防ぐ術はほとんどないのである。