逃げるは恥だがDX

好むと好まざるとにかかわらず、コロナ禍は企業へデジタルトランスフォーメーション(DX)推進のギアを上げさせた。かつてない規模のテレワークを経験し、上手くいった点や様々な課題が可視化されつつある。

事態の長期化も見込まれる中、これを機に業務システム変革の本格化をも考える企業も多いだろう。気運の高まる今だからこそ、どこかで温度差が生まれてしまわないか、少し心配になってしまう。逆説的だが、DXの推進には、「逃げ」の思考もまた重要になると考えている。

後ろにあるスタートライン「技術的負債」

IT活用に歴史のある企業ほど、ある意味においてDXへの障壁が高くなってしまう。技術的負債という考え方は、短期的な視野で開発を行ったシステムがレガシー化し、長期的な維持管理コストの高騰に苦しめられる問題を指摘する。「2025年の崖」で有名な経済産業省のDXレポートでは、「国内企業のIT関連費用のうち8割以上が既存システムの運用・保守に充てられている」という調査結果が示されている。DXを本格的に推し進めるにあたり、改めて確認すべきは、まずは負債の返済が第一であるという、泥臭い事実である。

レガシーシステムのコスト高は経営層の悩みの種である。しかし、技術者達も好き好んで手間のかかるシステムを維持管理している訳ではない。先代から引き継いだ負債に苦しみ、余裕のない状態が次の負債を生み、結果として生産的でない大量の運用業務にあたらざるをえない今がある。技術的負債は構造的問題だ。だからこそ、みんなで一緒に逃げるべきなのである。

どこへ逃げるか、何から逃げるのか

得てして集団の結束を生むものは共通の敵であったりするものだ。その際のKPI(達成目標とする指標)には、対象システムで本当に逃げ出したい問題を注視したい。経営層やDX推進チームと現場のシステム担当者が、議論を突き詰め、分かりあうことができれば理想だ。例えば、金銭的コストに変化はないが、運用業務時間の削減により次のステップに割く時間を捻出する、といった目標を大いに評価するくらいの潔さもいいのではないか。

業務のデジタル化比率や運用費削減率といった指標をバランスよく用いて、総合的な分析を行うというのは美しいやり方かも知れない。しかし、歴戦の現場リーダーにとって、それらしい小改善の集まりを、もっともらしく整えてみせることは難しくない。面倒な形だけの指標によって、「DXから逃げる」ことを選ばれてしまっては本末転倒であろう。

当然、システムを制約から解放するためには、既存業務フローへ切り込まざるを得ない場合も多い。事業部門からの反発も予想されるが、DXに真剣に取り組むのであれば、これは必須である。経営層の覚悟が試されるが、長期テレワークの最中、幾つかの慣例を改めることに成功したであろう今であれば、以前よりも踏み出しやすくなっているのではないか。

逃げたくないキモチ

他方、技術者の側も、新しい技術への適応にチャレンジすることが求められる。ヒトには、損失回避バイアスと呼ばれる、同じ確率で得られる利益よりも損失を大きく評価してしまう傾向がある。今持っているもの、置かれている状況を無意識に高く値踏みしてしまう、保有効果という心理による。これらは、実験的に確かめられた「性質」であって、意識して乗り越えるしかない。保有効果の解消には、現状の問題点をより強く意識するよりも、その場を離れたり、新しいものを保有することが有効と言われる。レガシーの現場からひととき逃げ出して、デジタル技術に触れる研修の機会等を先に作ってしまうことも有効かもしれない。

レガシーシステムからの出口には、大きく「クラウド基盤への移行」「サービス利用への切替」「廃棄」といったパターンがある。更新のないシステムは「何もしない(塩漬け)」という選択もある。DXの効果を得るためには、無難な選択よりも、遠くまで逃げ切ることが望ましい。例えば、ほぼ機能更新のないシステムであったとする。しかし、インターネットに公開された画面があり、日々新たな脆弱性対応に晒され疲弊しているといった状況が隠れていれば、塩漬けにせず、クラウド基盤の有効活用を検討する価値はあるだろう。一見冷静に見える決断の背景に損失回避バイアスがないか、常に疑うべきである。

逃げた先には何があるのか

晴れて技術的負債の返済に成功した先では、どんなメリットが得られるだろうか。本来目指していたDXに取り組むだけの時間と環境、人材を手にしているはずである。クラウドに持ち上げたシステムであれば、マネージドサービスの活用・組合せを実施しやすくなり、データ分析基盤等への発展も考えやすくなる。そこまでの成果に至っておらずとも、次の負債の返済により取り組みやすい状況になっているだろう。

そして、人材である。外部のDX人材は獲得競争が激しいうえ、離職リスクの高さも覚悟しなければならない。自社の業務知識も当然ない。一方で、社内人材は、スーパーな技術力こそ持っていないかもしれないが、その他の面で大きな優位を持ち、ポテンシャルは高い。技術的負債の返済に携わった人材は、自社の変革ステージにちょうど良い練度のDX人材になっているはずである。学習する余裕さえ確保し続けることが出来れば、次のレベルへも問題なく適合出来るだろう。良いデジタル技術ほど、多くのユーザを獲得すべく、使いやすく作られているものである。

そんなに上手くいくはずがないとの指摘はごもっともである。しかし、いざ逃げ始めてしまえば、試行錯誤の道中は、ただ負債に耐え続ける日々よりも、いい汗がかけるものと信じる。