ワープロの機能を習うよりも大事なこと

現在、多くの小中学校では、コンピュータに関する授業が行われている。 文部科学省の調査結果によれば、 小学校、中学校とも教育用コンピュータが導入されているのは、 ほぼ100%
近い状況で、 何らかの形でインターネット接続が可能なのは、 小学校で75.8%、中学校で89.3%となっている。
さらに来年度からは、総合的学習の導入により、 より多くの児童がコンピュータに接する機会が増えると考えられている。

何が教えられているか ?

現在、小中学校で行われているコンピュータ教育では、 主にワープロソフトやお絵書きソフト、
あるいはインターネット(ブラウザ)の使い方についての指導が中心となっている。 夏休みの自由研究で、インターネットで調べました、
というようなものも多く見られる。 ここでは、主に、インターネットは、役に立つ、いろいろなことがわかる、楽しい、
といったポジティブな面に焦点が当てられているように思われる。

しかし、一方で、インターネットには、誤った情報が大量にあること、 電子メールでのやりとりにより無用な誤解を生じたり、
電子会議室で誹謗・中傷がエスカレートしていったり、 さらには、
詐欺まがいのページや犯罪を助長するようなサイトも多数存在することを我々は知っている。
多くの教育現場では、このようなインターネットの負の側面まではあまり教えられていないようである。

負の側面を教育することの意義

文部省(現、文部科学省)が平成9年に出した答申 では、情報教育の目的として、
情報活用の実戦力、情報の科学的な理解といった点に加え、 情報社会に参画する態度(情報モラルの必要性や情報に対する責任について考え、
望ましい情報社会の創造に参画しようとする態度) もまた大きな目標の1つとして掲げられており、光の部分だけでなく、
陰の部分にも焦点を当てることが提言されている。

もちろん、実際問題として、このような道徳的な内容を含むカリキュラムは、
ワープロの使い方やインターネットの接続方法といったことを教えるのに比べればはるかに難しいだろうし、
また、そもそも初等教育、特に低年齢児に対しては、 時期尚早であるという考え方もあるかもしれない。 しかし、インターネットの可能性や、
それがどのくらい便利なのかを本当の意味で理解するためには、 逆に、どんなことが(現状)できないのか、
どのような危険があるのかを知ることが不可欠である。 連日のように報道されるインターネット上のトラブルや犯罪も、
基本的には当人の問題ではあるものの、 ネットワークを利用するモラルや情報の真偽や信頼性に関する理解不足という面も否めない。
リアルの世界とは異なるバーチャルな世界でのコミュニケーションに対する経験不足ということもあるだろう。 次世代を担う若い世代に対しては、
単に、メールが出せる、ワープロが打てる、絵が描ける、 ブラウザが使えるといったことだけではなく、むしろそれ以上に、
情報社会に参画するためのモラルやネットワークを流れる情報への対処方法を感覚として養って欲しいと考えている。

情報社会を成熟させるための教育を

具体的に、どのようなカリキュラムが考えられるだろうか ? インターネットを使った調査では、こんなことがすぐにわかった、
便利だった、というだけではなく、どのくらい誤った情報があったのか、 信頼性の高い情報を得るにはどのようにしたら良いのか、
そうしたことを実体験として習得することが重要である。 また、やや内容的に高度になるが、
電子メールや電子会議室を用いたディベートや伝言ゲームを行い、
情報が電子的なコミュニティを伝達されるときに、どのように変化していくのか、 誹謗・中傷や誤解はどのようにして発生するのか、
といったことを見ていく機会を作ってもらいたいと考えている。

こうした実習を通して、 インターネットを使って情報を交換していくためにはどのようなことに気をつけなければならないのか、
また、インターネットをより役に立つものに変えていくためには、 どうしていくべきか、
といったことを考える機会をつくって欲しいと思う。何よりも、 インターネットはまだ発展途上であるということを理解して欲しい。

情報社会の便利さと危険性は表裏一体の関係にある。 このような情報社会の二面性を教えることこそ、
ネットワーク社会全体の習熟度を高める上での有益な手段である。 10年後、20年後、子供たちが大人になるころ、
コンピュータがどのように進化しているかはわからない。 今習っているコンピュータの使い方など全く役に立たなくなるほど、
インタフェースが進化しているかもしれないし、 今とは全く異なるプラットフォームが使われているかもしれない。
しかし、未来の世代が今以上に大量の情報の中で生活していかなければならない、 ということは紛れもない事実である。