実名じゃなくてもいいじゃない

実名社会に近付くインターネット

Googleが新しいソーシャル系サービスGoogle+をはじめた。Facebookなど既存のサービスを参考に、Googleの既存サービスとも連携をはかった、なかなか面白いサービスである。しかし、どうもGoogleはFacebookのよくない部分まで参考にしてしまったようだ。それは実名でないアカウントに対して、たいへん強行な措置をとっていることだ。Facebookでは、実名ではないアカウントで利用していた人が、前触れもなくアカウントを削除させられたり、実名の入力を済ませるまで利用を停止させられたりする例が、これまで何度も見られてきた。Google+についても同じような問題が早くも話題となっている

FacebookやGoogle+が今後どのように運用されていくかは分からないので、これらのサービスの将来についてはこれ以上言及しない。問題は、ソーシャルメディアサービスにおいては、実名の利用が推奨され、時に強制されることが、なぜか当然となってきていることだ。世の中には、実名ではない名前で一般に知られている人もいれば、さまざまな理由で実名を名乗りたくない人もいる。そうした事情を鑑みれば、それがソーシャルメディアであろうとなかろうと、好きな名前でサービスを利用できるようにすべきではないだろうか。

実名は安全で匿名は危険か

ネットにおける実名のあつかいについてはこれまでも何度も論争が起きてきたので、簡単に問題を整理しておく。まず実名とは、一般的に公的な、役所に登録した名前を指す。実名でない名前は偽名と言われるが、これは「偽るための名前」というネガティブな意味に捉えられがちなので、このごろは顕名と呼ばれることが多い。ペンネーム、ハンドルネーム、ニックネームなどは顕名だ。もとは法律用語である。そして、名前を明らかにしないことは匿名と呼ぶ。

ネットで実名を名乗るべきかという過去の論争は、主に匿名との対比で行われてきた。実名の人間は社会的責任から信頼できる発言を行い誹謗中傷も行わないが、匿名の人間は身元を隠すことができるので嘘や誹謗中傷を行いがち……というような意見は、今もってよく見られるところである。しかし、この考えかたは二重に間違っている。まず実名であっても、信頼性の低い情報やデマを発信し、他人を誹謗中傷する人は、残念なことにたくさんいる。日本にはこれまで実名で情報を発信するネットサービスがあまりなかったので、「もしかすると実名中心社会になれば、ネットはもっと安全で安心なところになるのかも」という幻想を抱く人が多かった。しかし、その幻想はTwitterがこの一年ほどでぶちこわした。Twitterを見れば、実名でも平気で嘘を言う人や、誹謗中傷を行う人を簡単に見つけることができる。

もうひとつには、そもそもいまのネットに匿名環境はほとんどないということだ。匿名掲示板と呼ばれる2ちゃんねるでさえ、犯罪予告やひどい中傷を行えば、ISP経由で個人が特定され、逮捕されたり民事裁判になったりする。けっきょく、実名を名乗ることによる優位性もなければ、匿名であるゆえの免罪符もないのが今のネットの実態なのである。

実名利用は解決策ではない

他のウェブサービスがFacebookやGoogle+に倣って実名でしか利用できないようになれば、インターネットはどんどん実名社会に近付くだろう。そうすればネット上の行動は実名を核としてサービスを横断して結びつけられるようになり、さらに実社会の行動とも付き合わせが行われるようになる。プライバシーへの懸念はすぐに浮かぶところだが、はたしてその不安に打ち勝つほどのメリットがあるのだろうか。

仮に、ネットでは自分の名前をコロコロと変えられるために、多くの人間が無責任な言動をとっているのだとすれば、実名ではなく「変えられない顕名」を導入すればいいはずである。実際、多くのネットゲームではハンドルネーム(顕名)を利用するが、簡単には名前を変えられないものも多い。ネットゲームのような仮想社会では、ハンドルネームであっても他人との関係を築いて行く必要があるし、無責任な言動をとった時には信頼を失う。実名の社会となんら変わらない。

ユーザが顕名を選べるということであれば、ウェブサービスごとに別の顕名を持っても良いはずである。ウェブサービスによっては、他のウェブサービスとの連携のためにサービスを横断して名前を統一せよというところもあるかもしれないが、それはその都度ユーザに同意を求めれば良い。それに、たとえばユーザの広告にあわせて広告を表示したいというなら、実名・顕名・匿名なんであろうと、ユーザごとに一定のIDを付与できれば済む話で、名前がなければ成り立たないサービスというのは実のところそうないはずだ。

筆者は4年ほどまえ、ウェブにおいては複数のキャラクター、複数のアカウントを使いわけることも必要だと書いた(「ウェブサービスを巡るたくさんの私」)。FacebookやGoogle+に関していえば、顕名が使えるのはもちろん、複数の顕名を使いわけることさえ出来れば良いと考えている。面白いことに、Google+はサークル機能により相手に応じてコミュニケーションの使い分けができることをアピールしている。であれば名前だって使いわけたいところだ。

実名匿名論争を越えて、本質的な議論を

実名問題のナンセンスなところは、けっきょくFacebookもGoogleも、私たちが本当に実名を名乗っているかは分からないことだ。実際のところ、実名ではなさそうなアカウントを見つけては停止しているだけである。「ソーシャル=実名=一人に一アカウント=安全」のイメージは、マーケティング的には魅力であっても、実情には沿っていない。今日のウェブの仕組みでは、それらしい偽の名前でアカウントを複数取得することを、誰も止められないからだ。たとえばmixiでは新規入会時にケータイメールアドレスの入力を求めており、これは一人に一つだけのアカウントを配布する仕組みとしてそれなりに機能している(複数の携帯電話を持っていなければ)。しかし本名を確認する手段は、住民票をFAXでもするしかない。

筆者はソーシャルメディアの力を信じている。信じているからこそ、名前という人間の魅力とは本質的に関係のない部分にこだわるのは意味がないと考えている。誹謗中傷、デマ、なりすましなど、ネットにはまだまだ問題が山積みではあるが、それらは実名社会になったところで解決しない。ほかの取り組みが必要だ。それに、検索エンジンのGoogleが教えてくれたのは、質の高いページを見つける一番の方法は、書き手の名前や肩書きを見るのではなく、そのページがどれだけリンクされているかを見るということではなかったか。実名でも顕名でも匿名でも、誰もが責任を持ち、誰もが楽しめる、そんなウェブ社会が到来することを期待している。