日本の広告費
電通が「2009年 日本の広告費」を発表した。新聞は前年比81.4%の6739億円、雑誌は前年比74.4%の3034億円、テレビは前年比89.8%の1兆7139億円。いずれも2ケタ減とかなりの落ち込みであり、デフレだ不況だという趨勢をあらためて感じさせられる数字である。そんな中でインターネット広告費は前年比101.2%、7069億円。そのほかの落ち込みをカバーするような数字ではないが、それでもネット広告の堅調さを示す明るい材料と言えるだろう。
ネット広告の魅力は、相手に合わせてきめ細かく広告を配信できるという点にある。性別や年齢に合わせた広告、ふだん見ているウェブサイトに合わせた広告、位置に合わせた広告、この商品を買った人にはこんな広告、友達が使っている商品の広告、応用は幅広い。電通の発表資料にも「行動ターゲティング広告などの新しい領域も成長領域となるなど、広告手法の進化・多様化が進んだ」とある。趣味の多様化が謳われる今日、マス広告にかわり、人に合わせて作られるターゲティング広告の評価が高まるのは自然なことかもしれない。特にGoogleがAdMobを買収し、アップルがQuattro Wirelessを買収したことで、位置情報を用いた広告には注目が集まっている。
筆者の元にも、筆者好みの新譜や書籍のメール広告がしょっちゅう届いており、ネット広告の成長にかなり貢献している。しかし時々、この先になにがあるのだろうかと思うこともある。たとえばジャズ好きの人が薦められるがままにジャズの名盤を買って、買って、買って、ふと「ジャズはもういいかな」と思ったとき、今日のターゲティング広告はなにもできない。「それらしい人にそれらしい広告を配信する」アプローチの限界である。
ニッチになっていくネット広告
Web 2.0以降、私達は自分が欲しい情報だけを簡単に入手できるようになった。ブログ、SNS、YouTube、Twitter……いずれも自分が欲しいものを選択し、組み合わせることができる。いや、新聞だって好きなものを購読するんだから昔から同じじゃないかと思われるかもしれない。しかし新聞は30ページちかくのものが、毎朝ごろんとやってくる。それに対してウェブでは情報はもっと細切れに「カプセル化」、あるいは一口でつまめるよう「ナゲット化」されて届けられる。そうすると自分の欲しい情報だけ見ていて、それでお腹いっぱいということが起きてしまう。
SNSやTwitterなど、人を媒介としたものではこの傾向が特に顕著である。ごく小さな集団である話題が盛り上がったり、ある製品が人気になったりすることは、ネット上ではめずらしくない。このようにばバラバラになった社会のことを筆者は「社会のクラスタ化」と呼んでいる。同じことをトレンド面から見ると「マイクロトレンド」ということになるのだろうし、俯瞰的に眺めると「ダイバーシティ(多様性)」あるいは「ロングテール」が生まれているということになる。
このようにクラスタ化された社会のそれぞれに広告を配信する方法として、行動ターゲティング広告はとても優れている。しかし社会のクラスタ化が今後もどんどん進んでいけば、それに合わせた広告もどんどんニッチになっていき、ひとつひとつの広告効果はどんどん下がっていく。話題の広告がなくなり、話題の商品がなくなる。そして隣のクラスタでどのようなトレンドが起きているのか誰も分からない。ジャズのファンは他の音楽を知らないままだ。それでいいのだろうか。
ネット広告に必要な「外す勇気」
そう考えると今後の広告に求められるのは、それぞれのクラスタに適した広告(ジャズのファンにジャズの新譜広告を)というよりは、むしろクラスタ間を飛び越える勇気ではないか。それはたとえば、ジャズ好きの人にジャズ風のロックを薦めるというような方法であり、新橋でレストランを探す人に銀座のリーズナブルな店まで足を運ぶよう促すというような方法である。英語のドリルを買った人に次のレベルの本を紹介するような、あるいはもっと手軽な本を紹介するような方法である。
もちろん、そうした広告を作るのは難しい。現状の「欲しそうなものを教える」という広告だけでもある程度の価値を作ることができるし、そうした広告のほうが確実性が高いかもしれない。しかしそうやって私達がいつまでも同じことにこだわり続け、新しいことに興味を失ってしまっては本末転倒ではないだろうか。将来の価値を作るのは「新しい世界を気付かせる」ような広告、「自分を成長させてくれるような広告」である。そのためには一般的なターゲティング広告のセオリーをあえて外す勇気が必要だろう。そして外れていてもノイズと見なされないような品質の高い、面白い広告を作る必要があるだろう。繰り返すが、難しい課題だ。でもこの挑戦的な課題に、誰か取り組んでくれないだろうか。