インタフェースとシステムの本質

筆者はユーザインタフェース(以下、UI)研究者の端くれであり、 システムと人間の対話には強い興味を持っている。 UI研究者が集まる会議も頻繁に催されており、多種多様なUIに関する発表が行なわれる。 そのような場で様々なUIを備えたプロトタイプシステムのデモンストレーションを見ていると、 「ほほぅ」と思わず見入ってしまうもの、 「その手があったか」と唸らされるもの、 「よく実装したな」とその複雑かつ緻密な機構に感心させられるもの、 など、自分の研究分野と重なっていようがいまいが、 多くのヒントを持ち帰ることができる場合が多い。

インタフェースは重要だ

見た目のインパクトは重要だ。 例としてコンピュータのGraphical User Interface (GUI)を挙げてみる。 MacやWindowsの一般化によってGUIが普及し、 それ以前には文字ベースのインタフェース(CUI, Character User Interface)が中心であったコンピュータとの対話が、 より具体的なイメージを伴った操作となった。 GUIがCUIより優れているか否かは別として、 手を出しやすい印象を与えるインタフェースに変身したことには間違いない。

一方でLinuxやFreeBSDなどのPC-Unixを考えてみよう。 これらのPC-Unixが普及し始めた時期もWindowsの急成長期とそう前後していない。 Unixクローンゆえにその設計は論理的であり、 システムの安定性は当時のWindowsやMacを遙かにしのいでいた。 しかしこれらのシステムはサーバ用途を中心として広まっていった。 もちろんその理由として、 世界最大のソフトウェアベンダによるマーケティング活動の影響が非常に大きいと考えられるが、 これらのシステムはその利用者としてそもそもシステム管理者やエンジニア自身を対象としており、 「ユーザに優しいインタフェース」の課題が二の次とされていた点も見逃せない。

本質を見誤るな

UI研究の裾野は幅広く、 その評価法も最近では「ユーザビリティ」をキーワードとして様々な研究が行なわれている。 ところで冒頭で述べたようにUI研究は華やかで面白いものが多く、 多くの研究者を惹き付ける研究分野のひとつである。 ところがUI研究者が陥りがちな落とし穴があることには気を付けたい。

インタフェースの優劣を論じる際に気を付けなければならない点がある。 それはインタフェースの向こう側にあるシステムやアプリケーションの存在を軽視してUIの面白さだけを追求しても、 遠からず限界に突き当たり、その意義を問い直さざるを得なくなる。

UIのアイデアにだけ目が向いていると、システムの本質を見誤ることになる。 例え非常にインパクトのあるインタフェースを提示できたとして、 はたしてそのシステムは有用なのだろうか。 そのUIを備えたアプリケーションは意義のあるものなのだろうか。 UIに興味を持つ全ての人々は、 その裏側にあるシステムやアプリケーションを常に意識すべきである。

優れたシステムはUIを選ばない?

人々を惹き付けるアプリケーション、 いわゆるキラーアプリケーションと呼ばれる種類のソフトウェアやシステムは、 UI設計の優劣の如何に関わらず普及することが多い。 人間工学的な観点から考えると携帯電話に搭載された文字入力はかなり不自然だが、 多くのユーザがそれを受け入れて使いこなしている。 携帯電話の文字入力については、本質的に大きな制約が課されている中で、 連想入力方式など様々な試行錯誤が積み重ねられているのが現状だ。

人間の適応能力には目を見張るものがある。 強く興味を持つアプリケーションであれば、 UIは二の次でも使いこなそうとするものだ。 もちろんだからといってシステム実装者はそれに甘んじていてはいけない。 結局のところ最終的にはUIを通じてサービスが提供されるのだから。

なお本記事に関連した直近の催し物として、 キーボード&入力インタフェース研究会が9/15に開催される。 毎年、本研究会では卓越したアイデアのUIが論じられ、 また各研究者の努力と改良の積み重ねで実現されたプロトタイプシステムのデモンストレーションが用意される。 参加申込み締め切りは9/6なので、 新しいUIに興味のある方は参加してみてはいかがだろうか。