「ググれ」を揺るがすもの
筆者は「ググれ」という言葉が好きだ。念のために書くと「(Googleなどの検索エンジンで)検索しろ」という意味である。インターネットが普及して、自分で簡単に調べられることが増えた。素晴らしいことだ。しかし、そうした検索エンジンの命である検索範囲と検索精度を疑問視するような動きが、このごろ相次いで起きている。
ひとつはコンテンツファームなどと呼ばれる、まあスパムみたいなウェブサイトの流行である。Googleはスパムに負けつつある、というショッキングな論考もあるくらいだ。また、Facebookのように一般の検索エンジンからは手出しできないクローズドなコミュニティも流行しており、これまた検索エンジンの価値を下げている。対照的に、Googleの数少ないライバルであるマイクロソフトのBingは、Facebookのデータを検索対象に含める契約を勝ち取った。
進む情報の劣化
しかしそうした世の中のトレンドとは無関係に、そもそもウェブの情報はどんどん風化していく。ブログが話題になったゼロ年代前半から、Web 2.0が盛り上がったゼロ年代半ばを通じて、インターネット上にはたくさんのコンテンツが生成された。しかしいま、そうしたコンテンツの多くが古びて価値が下がり、検索エンジンの精度を落としている。これはWeb 2.0に対してよくあるアマチュアリズム批判、「ブログやTwitterに流れる情報は下らなくて無価値だ」とかいう話ではない。かつて価値があったものでも、時間と共に価値がなくなってきているのである。
たとえばインターネットで調べものをしていて、いいネタが見つかったと思って一通り読んだあと、それが数年前の情報だったと気付くことはないだろうか。いまはせいぜい2000年ごろの情報と取り違えるくらいかもしれないが、今後インターネットの情報が蓄積していけばこうした問題はますます増えていくだろう。
だからといって、古い情報を単純に切り捨てるわけにもいかない。古い情報のすべてが価値を失うわけではない。辞典の改訂作業をイメージすれば、中には古い版からそのままにすべき項目もあるし、中にはごっそり書き換えが必要な項目もある。どのように社会が変化していくか我々は予想できないので、どの情報が無価値になるかあらかじめ判断しておくこともできない。よく情報にはストック型とフロー型があるという説明があるが、実際のところなにがフローしてなにがストックするかは判断しがたい。フローするつもりでストックしてしまうものも(Twitterに書き殴ったものが沢山ReTweetされてGoogleの上位でヒットするようになるとか)、ストックするつもりでフローしてしまうものもある(ウェブログに書き溜めたのに陳腐化し誰にも見られなくなるとか)。
Wikiのように常に書き換えていくシステムは、こうした情報の劣化に対する一つの回答だろう。しかし運営を維持するためには多大な労力が必要だ。近頃はキュレーションといって、専門家が雑多な情報を整理していくことが解決策のひとつと見なされているが、これもけっきょくは労力の問題である。特定のテーマについては、そのような力技で維持していくことも必要だろう。しかし検索エンジンのような「あらゆる情報への窓口」を維持することはまずできない。
検索エンジンをもう一度
情報の劣化問題に対処していかなければ、検索エンジンをうまく扱うのはどんどん難しくなっていくだろう。すると「ググれ」といっても「無理」という答えが返ってくるようになる。TwitterやFacebookで人に聞いたほうがずっと早いからだ。新しい情報が絶え間なく増える一方、古い情報が劣化していく中で、Googleなどの検索エンジンはどこまで精度を保てるかという難しい課題に立ち向かっている。
前向きに考えれば、新しい検索エンジンの需要はかつてなく高まっているということでもある。かつては日本にも沢山の検索サービスがあったし、検索エンジンを研究する人間も少なくなかった。海外ではblekkoのような新興検索サービスが注目を集めている。課題を乗り越えれば、文字通り第二のGoogleになれるかもしれない。
(いや、もしかしたらすべて杞憂かもしれない。昨年、無料ホームページとして有名だったインフォシークのiswebライトがサービスを終了し、貴重な情報がインターネット上からごっそりと消えてなくなった。インターネットでは情報がいつまでも残り続けるような錯覚に陥るが、実際にはどんどん消えてなくなっている。今後はブログ業者が潰れて、Web 2.0の資産がごっそり消えることもあるだろう。すでにデータ引き継ぎもできないままブログサービスを終えた企業もあり、八田真行氏は「電子考古学」の重要性を説いている。まったく、なかなか知は蓄積しないものである)