スルー力を越えて

現代人は情報修行僧

2006年ごろ「スルー力(りょく)」という言葉が一部で話題になった。「スルー力」を提唱したのは検索システムNamazuなどの開発で著名な高林哲氏である。氏いわくスルーとは「ものごとをやり過ごしたり見て見なかったことにしたりすること」。つまりスルー力とは「やり過ごしたり見なかったことにする力」ということになる。

情報爆発時代と呼ばれる今日、私達のまわりには溢れるほどの情報がある。面白い情報もあるし、そうでない情報もある。耳に心地良い情報もあるし、そうでない情報もある。すべての情報を把握できた時代は遠い過去であるため、私達はなんらかの判断基準でもって取得する情報を選択していかなければいけない。不幸にも見たくない情報に出会ってしまったときは……スルー力の出番だ。

スルー力は自分にとって都合の悪い情報はスルーし、マイペースを保つことで効率性を上げよう、というような意図で主に使われていた。インターネット上にはあらゆる物事にあらゆる批判があり、一つ一つに耳を傾けていてはいくら時間があっても足りない。スルー力が話題になった背景には、このような現状がある。

しかし今日の情報爆発は、なにも都合の悪い情報だけに限らない。自分にとって面白い情報でさえ多すぎて、どこかで区切りをつけなければいけなくなっている。例えば参考になると思ってWikipediaを読み続けていたら、あっという間に一日が終わってしまう。どれだけ大量の情報を得たとしても、それを生かすことができなければ意味がない。どこで区切りをつけるべきか。嫌な情報はもちろん、時には面白そうな情報でさえスルーすることが求められる。現代人はまるで情報の修行僧である。

情報の効率的摂取問題

ところでスルーというのはあくまで「見て見ぬふり」である。つまり、スルーするためには見る必要がある。筆者のようにWikipediaで調べものをしていたつもりが、ついそのリンク先のリンク先のリンク先のリンク先まで読みふけってしまうような人間にとって、スルーはなかなか会得が難しい。

そもそも、どの程度の時間をかけて、どのように情報を摂取し、どのようにアウトプットへ繋げるべきかというのは、今日もっともバランス感覚とセンスが求められる問題である。情報がなければ何もアウトプットを出すことはできない。情報ばかりに捉われていると時間がなくなり、やはりアウトプットを出すことができない。偏った情報ばかりに頼っていると、偏った理解に繋がる。バランス良く情報を摂取しているつもりで、表層的にしか理解していない。どうすればいいのだろうか。

この「情報の効率的摂取問題」に対し、みんなが評価している情報を摂取していけばいいのではないか、と回答したのがWeb 2.0というパラダイムである。その考え方を具体化したのが、diggや「はてなブックマーク」といったソーシャルブックマークだ。いわば多数決ばんざい。もちろん、多数決による解決は万能からは程遠い。多数決に従うというのは結局のところ後追いであって、誰かが最初に評価をしなければそのあとの評価は続かない。そもそも人気であることと価値があることは違う。そして価値観は人や状況によって大きく異なる。

それでは、と次に現れたのがソーシャルネットワークによる解決法である。つまり自分の信頼する人が評価する情報は、自分も見るべきだろう、という考え方だ。自分の信頼する人が三人以上評価していたら、IT分野でこの人が薦めるなら、というように条件付けしていく方法も考えられる。しかしどれだけフィルタリングをしても、もとの情報量が増加し続ける以上、届けられる情報量も増えていく。また、ソーシャルフィルタリングもやはり後追いであることは否めない。ソーシャルネットワークに依存すると、自分の知っていることは周囲も知っていることだけ、ということになりかねないのである。

来た、見た、切り捨てた

はてなブックマークでは毎日いろいろな記事が人気になっているが、やはりウェブサイトやブログ単位で人気の高いものがあり、そこで書かれたものは常連のように人気記事として登場する。あくまで多数決の結果なので、読んでみて面白いとは限らない。しかし後日また同じウェブサイトやブログの記事が人気となっていると、ついつい読んでしまう。無駄である。

そこで筆者はGreasemonkeyというたいへん便利なアプリケーションを用いて、指定したウェブサイトの記事は「はてなブックマーク」に表示しないよう改造した。つまり私的ブラックリストを作り、私の中でそれらのウェブサイトは「なかったこと」となったのである。以来、私はスルーさえしていない。今もそれらのウェブサイトがはてなブックマークで人気かどうかさえ分からない。「そこに大事な情報があったらどうするのか?」という懸念もあるかもしれないが、それはすべての情報に目を通そうとしていた時代の考え方だろう。そこ以外にも大事な情報はあるだろうし、効率性のためになにかを犠牲としただけなのだ。

このような無視の手法が、情報爆発のあとには必ず流行ると筆者は考えている。あるブログを読んだあと、つまらないと思ったら右クリックで「このブログを無視」を選ぶ。すると以降、そのブログには繋がらないようになり、検索エンジンの結果に登場することもない。あるいは文体解析のソフトウェアと組み合わさり、稚拙な文章は読者が目にする前に問答無用で「無視リスト」に入れられてしまう、というような応用も考えられる。言い換えると、情報の効率的摂取問題はそれくらいシビアになると予想される。

反対に考えると、筆者をふくめインターネット上に文章を書く人間は、今後なにかを書いても「アクセスが集まらない」程度ではなく「無視されて届かない」リスクが生まれる可能性がある。それは、もの書きとしての死である。それでも情報爆発の時代、あえて新しい情報を発信しようするのだから、それくらいの意識が求められているのではないだろうか。

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