優秀なエンジニアに鈴はつけられない

最近、基本ソフト「Linux」を巡る議論が各所で聞かれるようになった。 このソフトの最大の特徴は、 いわゆる「オープンソース(公開仕様)」として無償で公開されていること。 すでに全世界で800万人のユーザがおり、 一部PCメーカはLinux標準実装のPC出荷をほのめかすまで市民権を獲得し始めている。 このソフトの改修や機能拡張は、全世界の優秀なエンジニアがボランタリに行っている

カセドラルかバザールか

Linuxのように、 一見無計画だけれども世界中のエンジニアが市場に群がるようにソフトを開発するモデルを 「バザール(市場)」と呼ぶのに対して、 マイクロソフトのWindowsのように、強力なトップマネージメント(司教様)の下で、 密室的にソフトを開発するのを「カセドラル(大聖堂)」と呼ぶのだそうである。 大聖堂(Windows)が出来上がると、 大聖堂の御威光で門前町(アプリケーションソフト)ができ、 地代(ライセンス料)は教会が召し上げる、 という話のオチまでを聞くと、 これはなかなか言い得て妙な言葉だと感心してしまう。

大聖堂の作り手に満足しないエンジニア達

この話を聞いて筆者が思うのは、 今日、優秀なエンジニア達が単なる大聖堂の作り手でいることに不満を感じ、 バザールの真ん中に飛び出していきたい、 という思いを特に強く持ちはじめているのではないか、ということ。 過日、大手コンピュータメーカから独立した友人との話が、まさにこの話題になった。

彼が言うには、 大聖堂(例えば大手コンピュータメーカ)のなかにいる研究者やエンジニアも、 最近では司教様が命ずるソフト開発以外に、 ボランタリに外部のソフト開発を手伝ったり、 外部の研究者やエンジニアと共同研究をする例が少なくないそうである。 外部と隔絶していた一昔前の研究室とは違って、 今ではネットワークが縦横無尽に張り巡らされている。 したがって、自由に大聖堂の外にも目を向けることができるし、 司教様がそのことを咎めだてすることも難しい (例えば、マイクロソフトのエンジニアのなかに、 Linuxの開発を手伝っている人物がいないとも限らない)。 優秀なエンジニアの首に鈴をつける訳にはいかないのである。

今日、日本の雇用環境が急速に流動化し始めている。 (私の友人のように)外の空気を吸っている内に、 自分自身がバザールの中に飛び出していってしまうエンジニアも増え始めるのではないか。 もしそうであれば、これは日本の情報技術にとって必ずしも悪いことではない。 米国では、情報技術ベンチャーの起業家の多くは大学から生まれている。 もし、日本でも同じように情報技術ベンチャーが多く誕生するとすれば、 その起業家は当面、問題の大聖堂(例えば大手コンピュータメーカ)から生まれてくる可能性が高い。 「面白い研究や技術開発をするならば、 大学ではなく設備の整った大手メーカに行く方が得だ」、 という話が良く聞かれた日本の「大聖堂」には、 他の欧米諸国の場合以上に、 多くの優秀な情報技術の研究者やエンジニアが取り込まれているからだ。

今日のネットワーク時代には、 優秀なエンジニアの首に鈴をつけることはできない。 そして、そうした自由人が自由に振る舞うことが、 決して悪いことではない時代になっていることだけは確かである。